どうも…。まだ広告付いてますでしょうか?
上のカットが原稿のものです。拡大スクショです。このブログのみです。
話は変わりますが、このあいだの『チーン』ですが、日本人だと本地垂迹思想というものや神仏融合思想ものが一般的です。漢字で書くと分かりづらいですが、普通に日常に溶け込んでます。少し形式的ですが、キリスト教やユダヤ教、ヒンズー教なども溶け込んでいるんようです。
一般家庭の家には神棚と仏壇があります。これが本地垂迹思想、神仏融合思想と思います。日本古来の神道と奈良時代に伝わった仏教が、家庭に同居するという事実。詳しくいうと、中国の民間信仰の鬼門や黄泉といった思想、明王や荼枳尼といったヒンズー教の神も日本社会には同居しています。
で、『チーン』の経験は仏教の初七日ということに起因してると思います。であれば、キリスト教はどうなのか?
天国や地獄は、ありますよね。では成仏っていうのは?神道では?
こういうものは生前信じている教えに沿うように粛々と運ばれるようにおもいます。三途の川を信じている人は、亡くなると三途の川に行くと思うんです。三途の川を知らない人が行ったとしたら、多分、三途の川は現れないんじゃないかと考えます。
僕はここが肝心な点だと思うんです。知らないといっても、TVやラジオ、雑誌から、あるいは友達、家族、親戚などから三途の川を間接的に少しは耳に入っているんじゃないですか。本人は忘れて知らなくても、記憶の奥底に微かに残っているかもしれません。だとすると、三途の川は現れるんです。
おなじことが成仏についても言えるような気がします。死んだら天国や地獄に行って閻魔様に裁かれて…、なんて考えてる人はきっとそのように天国や地獄に行くんです。で、子供のころに親や祖父母から聞かされた、天国、地獄をめぐり魂になって生まれ変わる…。
そう考えない唯物論の人は天国も地獄にも行かないで、霊界をさ迷うことになるんじゃないかなぁ…。成仏もしない、死んだことも分からないで、ただ…。
よく夢は叶う…と、言います。これってほんとにそうなんじゃないかと…。夢って、思想、願望、意識だとします。死について否定的で何の意識も持たないと、転生することなどありません。しかし、死を乗り越え魂となり、生まれ変われると信じている人が亡くなると、その人はホントに転生するんです。
こう考えるとスッキリするんです。初七日は仏教の儀式です。生前そのような教えを信じていればそうなります。キリスト教だとそうじゃないと思います。信じる者は救われる…とも言います。
このように考えると、例えばこの世は仮想現実世界だと信じると、ホントに仮想現実になる…といっても、それをどうやって確かめる?唯一絶対の死すら仮想なわけですから、死なない、自分も存在してるのか、他者との区別も意味の無いもの…。本当の現実って?それも仮想だったら…。結局、現実を仮想と捉えるしかなくなるんじゃ…?
宇宙人もそうですよね。いると信じてる人のところに現れる。信じてるもんだから、宇宙人じゃなくても、幽霊や妖怪だとしても、宇宙人だと思っちゃう…。
そうなると何を信じれば良いのか?認識論、感覚器官、認知、様々なロジック…。嘘やフェイク、捏造…。嘘っていうからには、嘘じゃない真実を知っていないと嘘が付けない。真実を偽って嘘をついたとして、その真実が偽物だったら…。
僕はこういった状況からストーリーを作っていきます。なんだかんだ言って、真実も何もかも確かなものは一つも無い。仮想現実かもしれないし…。だったら、楽しいこと考えようではありませんか?好きなものを信じれば良い。ただ、あまりのめり込まないように…。だって、確かなものなど無いのだから。のめり込むと、楽しいものもだんだん辛いものに変わってしまうんじゃないかしら。
僕の漫画や絵も、楽しんでもらえたらそれで良いんです。あまり深刻になりたくないですね。漫画くらいは…。